ウィッシュリストの倫理と give & give & take 精神
ギフト、来年以降もっとウェーブくる予感がする。いくら効率的な機械・システムが発明されても人が働く時間は減らないし。過剰にものや価値が生み出されてる。政治は常にお金持ちのための政治なので。人になにかプレゼントする、自分からはじまるgive & give & take 精神みたいなものをボトムアップ的に世間に広めていったらいいと思う、生活を共にする共同体、団地とか自治体の回覧板まわしあう人たちの間で繰り広げられているようなことをインターネットまで広げていったらいい。
「give & give & take 精神」は「output & output & input精神」とも言い換えができそう
つまりインターネットとの親和性がめちゃめちゃ高い感じがする
ギフト ≒ シェア ≒ 公共
amazonレビューとかネット書評を読むことも読書の一部になってるってここ数年ずっと言ってきてるけど、だれかから『ギフト』として提示されるのも読書の一部になっていく感がありそう
そのうち一つは無記名、完全なる匿名であった。ウィッシュリスト、ギフトの可能性などとほざいておったが、匿名で贈れることを知らなかったし、そういうギフトをもらったのは初めてでした
なるほど、これはすごい。今まではなんとなく送ってくれた人に対してお礼とかしてたけど、匿名だと誰かわからんので、お返しをしなければという気持ちをどこかにぶつけるしかなく、そうするとまたギフトを送る対象範囲が広がっていく感じがある。全員がなるべく匿名でウィッシュリストを公開して、なるべく匿名でウィッシュリストから送ることで、全員のお返しの対象がインターネット越しの匿名の誰かになっていくんじゃないか、そういうのはめちゃくちゃすごい気がする。
ギフトがもらいたい、とか、オレのイカれたウィッシュリストをみてもらいたい、とかそういうのもイイけど、自分の場合、公開するとなると、見た目を気にするところがあるので、窮屈かなとか思う
本棚も(いや、本棚は持っていなかった)、積読山脈(実体のある積読山脈)も、写真を晒したりするけど、背表紙は見せたくない、みたいな気持ちがある
自分がインターネットに書いていることは、多かれ少なかれフィクションです